Judeの伝言

NEETのEってエンプロイメントとエデュケーションどっちがどっちのEでしたっけ?

ここはチラシの裏

僕は最近、生きていて本当に良かったと、ふと胸をなでおろすことがあります。それは自分に関して起こるのががほとんどですが、家族や友人や教授やインターネットでかかわっている人、すべての人に関して思います。胸を撫で下ろす、感謝のようなものなのかもしれないなと思います。何への感謝?神への感謝かもしれないなと思います。僕はカトリックの教義をおおむね納得して信じているつもりですが、主の祈りすら毎日唱えません。意識が神に向く機会が少ないということで、言うなれば罪びとの罪びとたる姿です。いや、…いやごめん。もっとそういうのが無しで読者がわかるわ~~~みたいになってもらえる話がしたいんですけど、うさん臭くなりそうですかね、うさん臭くなろう。ちょっと恥ずかしいけど。続きを書きます。いま生きていくことがいいことだと思える、なんでだろう。今までそんなこと冗談でも考えられなかったです。全部無駄だと思っていました。有機物が活動したりしなかったり、それが何って感じで全部気持ち悪かったのに。なんなんだろうな。今幸せですから!あなたも教会に行って幸せになりましょう!という文法って絶対昔の僕のような人に通用しないと思います。じゃあ僕はなんで今ここまで思考回路が変わって幸せに(皮肉的に言えばお花畑に)なれたのか。僕はここで神様のおかげだね、なんて思っちゃうのですがたぶん以前の僕にはその文法も当然通用しないはずですよ。僕は僕の幸せを獲得すると同時に生きることがむなしいと思っている人との対話の機会を悉く失ってしまったわけです。過去の自分と今の自分が全くの別人のように乖離していることが恐ろしく思うこともあります。昔の自分の行動の多くが、まったく理解できないからです。今の僕に言わせれば当然ありえないことですが、今の僕と過去の僕を俯瞰したとき、これからまた何回も僕は別人になってしまうのかもしれないです。あれ、俯瞰している僕が今の僕なんでしょうか。分かりません。よくわからないけど、生きていてよかったと胸をなでおろすたびに、過去の自分が脳裏に浮かんでは、どうしてしまったんだろうと思います。もっと単純に考えれば、自分は衝動と規範の間で揺れていたなんていう一次元的構造かもしれないなんてことも、ありうるのかもな、たしかに。